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電気通信大学藤沢分校物語

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/2/13 14:43
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4294

 5・3 藤沢市の近世
 
 15世紀末、小田原城に入った伊勢宗瑞 (のちに北条早雲とよばれる後北条氏の祖) は、16世紀に入ると相模一帯の支配に乗り出し、上杉朝長の大庭城を落とす一方、玉縄城や鵠沼砦を築き相模川以東を東都として支配し、ここに大庭御厨は消滅したと考えられる。後北条氏は藤沢に大鋸引 (おがびき、製材業・大工)を集住させ伝馬を置く。これが「大鋸(だいざり)」の地名の起こりであり、現在に続く藤沢の街の基礎が形成された。1590年(天正18)豊臣秀吉の小田原攻めで後北条氏は敗北し、遺領は徳川家康の支配下に入った。家康によって五街道が整備され、藤沢に御殿・代官陣屋が設置され、東海道の伝馬宿となった。

 江戸初期に遊行上人普光が再建した清浄光寺(遊行寺) (写真①)は、1631年(寛永8)幕府から時宗247寺の総本山として認められた。藤沢は宿場町と門前町を兼ねた性格をもつようになる。江戸の町人文化が安定して発展した元禄期頃から、大山詣や江の島詣(写真②)が盛んになり、藤沢宿は東海道の往来ばかりでなく、江の島道の分岐点としても賑わうようになる。この頃、杉山検校が江の島道の各所に弁財天道標を建てた。一方、藤沢宿周辺の43か村は助郷村に指定されて負担が増した。(写真①、写真②‥注63)

 1728年(享保13)幕府鉄砲方の井上左太夫貞高が享保の改革の一環として片瀬山から相模川に至る湘南海岸に相州砲術調錬場(鉄砲場)を設置する。鉄砲場内での耕作が禁じられたほか、物資運搬や宿舎提供などが義務付けられ、村民の負担はさらに増えた。

 藤沢市城は水田適地が少なく、麦や雑穀を中心とする自給的な農業が中心だった。辻堂や鵠沼の砂浜では地引網が主な漁法だった。漁獲物の多くはイワシで、干鰯(ほしか)として肥料にされた。江の島ではカツオ漁と磯物のイセエビやサザエ漁が行われた。片瀬は河口港として発展し、高瀬舟で川を下ってきた年貢米や諸物資が、200石船などの外洋船に積み替えられた。260年余の江戸時代には、元禄地震や安政地震をはじめ、想定マグニチュード7以上の巨大地震は9回を数え、富士宝永山の大噴火や浅間山の大噴火が飢饉をもたらした。藤沢宿は境川の谷の出口がふさがれたような場所にあるため、しばしば水害に悩まされた。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4294

 5・4藤沢市の近代 その1

 1868年(明元)9月、明治維新によって神奈川県と改称された。1872年(明5) 羽鳥村の名主三嘴八郎右衛門が、小笠原東陽を招いて読書院を開設し同年8月、学制が布かれると読書院は羽鳥学校に改称し、以下藤沢市城では鵠沼学舎 (現鵠沼小学校) など5校が次々に開校した。一方小笠原東陽の読書院は中等教育部門を私塾として存続させ、後に耕徐塾、更に耕徐義塾と改称し、政財界に多くの人材 (鈴木三郎助、吉田茂等)を送り出した。然し1897年(明30) 台風で校舎が全壊し、1900年(同33) に廃校となった。

 王政復古の大号令の下に、明治政府は神政政治を目指し、廃仏毀釈を早々に断行した。この影響をまともに受けたのが江の島の金亀山与願寺である。寺は廃されたが弁財天信仰は引き継がれ、宗像三女神を祀る江島神社となり、宿坊は一般旅館となった。開港以来、片瀬や江の島には多くの外国人が訪れるようになった。動物学者のモースはシャミセンガイ研究の為、江の島に日本最初の臨海実験所を開いた。貿易商のコッキングは江の島の東山頂部にあった与願寺、菜園を買い取り、別荘と熱帯植物園を造営した。ヨーロッパ式の海水浴も伝えられた。医師ベルツは海水浴場適地を探索し、片瀬は海水浴適地と内務省に紹介した。「海水浴場」と銘打った例としては、1886年(明19)の鵠沼海岸海水浴場が最初である。海水浴客を当て込んで「鵠沼館」が開業し5年ほどの間「対江館」 (田中耕太郎建築)「東屋」(伊東将行建築)が相次いで開業した。1891年(明24)学習院が隅田川の浜町河岸にあった遊泳演習場を片瀬に移すと、片瀬海岸に学習院の寄宿舎が建てられた。

 1911年(明44)遊泳演習所は沼津御用邸の隣接地に移されるが、この跡地を活用して村営の海水浴場が開設された。長後は、開港地横浜に続く長後街道と機業中心地八王子へ続く八王子(滝山)街道の交差点の故により、台地上の各地に製糸工場が設立され養蚕業の中心地となった。藤沢市城で最初のキリスト教会が開設され、平野友輔が近代医療を開始した。1887年(明20)、後に東海道本線となる横浜-国府津間が開通し藤沢停車場が開設される。鉄道の開通により農業形態も自給農業から商業的農業へ発展した。北部の台地では養蚕に加えてサツマイモ栽培と澱粉工業・アルコール醸造、その残滓を利用した養豚が盛んになる。南部の砂丘地帯はサツマイモやモモなどが特産品となった。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4294

 5・4 藤沢市の近代 その2

 1878年(明11) に都区町村編制法が実施され、高座郡役所が藤沢に置かれた。町村統合は続き、1908年 (明41) には藤沢大阪町・鵠沼村・明治村が合併して藤沢町が誕生した。

 1868年(明治元) に廃止された相州炮術調錬場のうち、辻堂は横須賀海軍砲術学校の演習場 (詳細次号) として残されたが、鵠沼は大分の府内城主だった大給子爵が入手した。鉄道開通を機にここに日本初の大型別荘分譲地・鵠沼海岸別荘地が開発(武蔵川越の出身、伊東将光) されることになる。広大な不毛の砂原に一町ごとに街路綱が敷設され、区画と砂防のためにクロマツが植栽されて分譲された。

 1902年 (明35)、江島電気鉄道藤沢-片瀬間が開通する。以来、華族や富豪の別荘が次々に構えられ、一方で区画を数百坪単位に細分して営まれた貸別荘を拠点として、白樺派の文士 (武者小路実篤、志賀直哉等) や草土社の画家 (岸田劉生)、大正教養主義の学者(安倍能成、和辻哲郎) らによって新しい自由な文化が鵠沼から発信された。

 1923年 (大12) 9月1日、関東大震災によって市城で4000戸余が倒壊したが、大規模な火災は発生しなかった。津波によって江の島桟橋をはじめ、境川、引地川の橋は被害を受けた。海岸部では1メートル前後の隆起がみられ、砂浜は広がり、江の島では隆起海蝕台が海面上に現れた。震災からの復興は急ピッチで進められ、被害の大きかった京浜地区から多くの人々が移り住み、海岸部の別荘地は定住の住宅地となっていった。1929年(昭4)小田原急行鉄道江の島線が開通すると本鵠沼や鵠沼海岸駅周辺では耕地整理の名目で街路の整備が行われて住宅地化が進んだ。震災からの復興が一段落した頃、レジャー施設の開設が相次いだ。鵠沼海岸には安全プール、藤沢には競馬場、片瀬山には遊園地 「龍口園」 が開かれたが、世界恐慌の影響などで長続きしなかった。

 1929年(昭4)、県知事山縣治郎は湘南と箱根を結ぶ国際観光地の開発を目指し、「湘南遊歩道路」県道片瀬大磯線の敷設を行った。当時は緑地帯や乗馬道も設けられ、砂防林として砂丘列に沿ってクロマツが植え付けられた。一方、相模野台地南端の地形と展望を活用し、藤沢カントリー倶楽部 (設計‥石井光次郎、赤星四郎他) が開設された。1940年(昭15)藤沢町が市制を施行して藤沢市が誕生する。翌年には鎌倉郡村岡村、さらに翌1942年 (昭17) に高座郡六会村が藤沢市に合併した。太平洋戦争に突入すると、北部の台地に藤沢海軍航空隊と海軍電測学校が開設される。南部の海岸地域に、官立無線電信講習所が藤沢分教場を設置した。戦争が激化すると、藤沢市は疎開先となり、人口が急増した。(以下次号)

注) 引用資料は最終稿にまとめて記載します。
注61‥会報V Ol・24-1
注62‥鵠沼郷土資料室
注63‥ウィキペディア 「藤沢市」
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4294

 逓信省は、藤沢市に分教場設置を望んだ理由の一つは「関係方面に連絡して適当な土地を物色したが、海軍関係とも密接な関係のある湘南海岸が非常に好適の地であると考え、調査した結果、鵠沼海岸の某地点に川沿いに好適の地があった」と藤沢市議会で明言した(注71)。

 では、海軍と密接な関係とはどういう事なのか?
その遠因を探ると、藤沢に1728年(享保13)設置された鉄砲場に突き当る。1868年(明治元)に廃止されたが、そのうちの辻堂が横須賀海軍砲術学校演習場として近代日本海軍に引き継がれ、密接な関係が生じるのである。

 7.鉄砲場

 7・1 大砲(大筒)の進歩(注72)

 豊臣秀吉による朝鮮出兵(1592~1598)では、日本軍は鉄砲に於いては質量共に優れていたが、大砲では明軍、朝鮮軍に劣っており、戦争後期には大いに苦しめられた。大阪の陣(1614~1615)の時には東軍は多くの大砲を持ち、これを攻城の最大の武器とした。島原の乱(1637~1638)の時にも、攻城軍は多数の大砲を使用し籠城軍を苦しめた。そして遂に1644年(正保元)には五貫目玉(19㎏)の青銅製巨砲さえ出現したという。然し、その後は泰平が続き大砲技術は停滞、退歩してしまったようである(洞富雄『種子島銃』)。


 7・2 享保の改革

 1716年(享保元)徳川吉宗は江戸幕府の第8代将軍に就任した。吉宗は紀州藩主の藩政を幕政に反映させ、第6代家宣、第7代家継の正徳の治(1711~1716)を改める享保の改革(1716~1745)即ち幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約、新田開発などの公共政策、公事方御定書の制定、目安箱の設置などを実施した(注73)。

 享保の改革は、幕府機構及び民政の上でも後代の規範を作りあげた事において幕政史上注目されているが、この時代は学問や武備の面でも後代の源流を形成したという点で注目する必要がある。幕府の正史たる『徳川実紀』は勿論、歴代の将軍をほめたたえているが、『実紀』が彼に与えた評価は「聡明大度」と「膂力(腕力)抜
群」であった。彼は武芸を大いに奨励したし、彼自身も達者だった。綱吉の時廃止された鷹狩りりに江戸の近郊で鷹狩りをやった事は有名である。元来、徳川氏の支配は武力を以って成立したものだから、その精神を失わない事が大切だとし、武道訓練をも進め、その中に大砲や鉄砲が入っていた事は勿論である(注72)。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4294

 7・2・1 鉄砲場の設置

 幕府の享保の改革の一環として、鉄砲方役人たちの武術鍛錬の場として、さらにいえば当時、軍事部門を担当する番方衆の士気昂揚を目的として湘南海岸に設置されたものである。その本質的意義は幕府の軍備・軍事力の低下を防止するという点にあったと思われる。その後、1792年(寛政4)には武州西台徳丸が原(板橋区高島平、筆者注:高島平の地名は高島秋帆にちなんで名付けられたという)に鉄砲場を設け、さらには1843年(天保14)に江戸四ツ谷角筈村に、翌年は下渋谷村、赤坂今井、1852年(嘉永5)大森海岸、1854年(安政元)深川越中島に設置した。こうした増設の目的は対外防衛意識の台頭による軍備の拡大であった(注74)。

 幕府の大筒(大砲)実射場は早くより鎌倉海岸にあった。(注72)1728年 (享保13年)、幕府鉄砲方の井上左太夫貞高が、鎌倉の西方、茅ヶ崎の柳島村(相模川河口)から藤沢の片瀬村までの海岸を鉄砲場としたのである(注77)。


 鉄砲場が設置された当初は、区域の各村々は旗本領であったが、柳島村以外は逐次幕府領に組み入れられ代官支配村となった。代官は文官であり、幕府を支える年貢徴収が主任務で、一面、領民を守る民政の担当者として、治安維持や訴訟なども取り扱った。それに対する武官は鉄砲場での演習に従事する大筒役や鉄砲方であり、純粋に火砲・銃器の製造や火薬類の準備、演習での火術の指導などが任務であった(注75)。

 選定の大きな理由は、砲術調錬に適した藤沢の地形的特質、即ち山上からの射撃、舟上からの試射、長い海岸線を有する砂丘の荒野、また江戸、鎌倉に近く、藤沢宿(東海道五十三次)にも近い地理的利便性もあったからであろう。

 服部清道氏は「相州炮術調錬場編年史料」(注76、昭和44年発行)の中で、享保の改革で活躍した大岡越前守忠相(1677~1752)の介在があったのではないかと述べている。「大岡氏は天正19年(1591)以来この地方に采地を有し、且つ堤村の浄見寺(筆者注:茅ヶ崎市では毎年4月下旬大岡越前祭を催している)をもって代々の葬地としていた事により、当地方の地理的環境にも相当明るかったと思われ、また忠相の実父忠高、養父忠実(原文のママ)共に、元禄年中(1688~1704)にそれぞれ御先鉄砲頭をつとめ、更に相州鉄炮調錬場が設けられた享保13年(1728年)には、忠相は江戸町奉行として幕府の要職者との接触があっただろうと考えられ、初め幕府がこの地に炮術調錬場を設けるに就いては、予め幕府当事者の検分調査が為されたでありましょ、が、それに至るまでの予備的な資料の提示なり、推挙なりに、大岡氏の介在を想定したいと思うのです。」

 然し、郷土史研究家、東哲郎氏は「これまでの研究では何故、此の地が鉄砲場として設定されたかの確証はない」と述べている(注75)。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4294

 7・2・2 鉄砲場(注77)

 1)運営:幕府鉄砲方、藤沢宿代官所と地元の村々の名主から任命された鉄炮場見廻役(地元住民)で運営。見廻役は勘定奉行配下ながら代官の直接支配を受け苗字帯刀を許されていた。


 2)演習頻度:

 *1728~1748年:毎年の演習

 *1750~1774年:隔年の演習

 *1775年以降:最低隔年の演習


 3)演習期間:

 *7組に分かれ、各組16~25日間、4月上旬~7月中旬に断続的に実施。

 *江戸から参加する役人は往復各2日間を加えて、20日から1ヶ月間の出張となる。

 *風雨の日は順延。秋口まで行うこともある。


 4)演習内容:4種類の演習がされた。

 ‐1町打:遠距離射撃訓練。辻堂海岸に発射場及び打小屋を置いた。射撃目標は柳島の海岸、大筒稽古は烏帽子岩も標的とした。

 ‐2角打:近距離射撃訓練。平場の鵠沼海岸で行う。打場から一町(約109m)毎に定杭を打ち発射の度に着弾地点を特定し、飛弾距離を測定。

 ‐3船打:船上射撃訓練。地元の漁船小舟3隻と300石船一艘を借り、船上から射撃訓練をした。

 ‐4下ケ矢(さげがや):高所から下方へ打つ訓練。片瀬村駒立山から下方に打ちおろした。


 7・3 江川太郎左衛門(注78‐1)

 江川太郎左衛門家は平安時代以来明治維新に至るまで38代続いた名家である。平安末期に伊豆に移住し、源頼朝の挙兵を助けたために領域支配が確定した。1590年(天正18)、豊臣秀吉による小田原征伐の際に、江川家28代英長は寝返って徳川家康に従い、代官に任ぜられた。以降江川家は、1723(享保8)~1758年(宝暦8)の間を除き、明治維新まで相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領五万四千石(後二十六万石)の代官とし、民政に当たった。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4294

 7・3・1 江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)

 藤沢宿代官江川家は、1723年(享保8)、花木橋と戸塚往還修理の為中原の林を伐り出す際、手代の不正事件が発覚し代官職を解かれる。然し、次の代になり復職し第36代英龍(1801~1855)に受け継がれる。1834年(天保5)、英龍は34歳の時、代官職を継いだ。

 それまでの彼は1825年(文政8)の「異国船打払令」に象徴される鎖国日本の状況を憂い、その3年後に起こった「シーボルト事件」を悲しむ。やがて国内では新潟での百姓一揆等、頻発する中に、封建の世の変動を敏感に受け止めていた。彼が代官職を相続して間もな、大塩平八郎の乱(1837年=天保8)、そして米国商船の浦賀入港事件等の大事件が頻発したため、民政の改革と海防の充実を痛感し、職制を超越して西洋の新知識吸収に急傾斜するようになる。

 既に開明君主として知られる水戸藩主・斉昭は自ら洋式船建造に踏み切り、幕府に先んじて海防の具体策を実現しつつあった、然し鳥居耀蔵等に代表される幕府役人の頭は鈍かった。周囲の開明武士・知識者が「改革」をいくら言っても実効性はなく、日増しに幕府及びその重職者等への批判は高まっていった。そうした1840年(天保11)、清国とイギリスとの「阿片戦争」が起こり外国からの侵略に対する危機感は日本中に広がっていった。もはや対岸の火事として、傍観できない状況を迎える事になる。

 ここに英龍の砲術師範である高島秋帆は「阿片戦争」の日本への影響を予想して、幕府に対し、いわゆる「西洋砲術意見書」を建議した。幕府は一応西洋砲術を採用すべしとの意見を入れて、翌年5月、徳丸が原で洋式銃隊砲隊の調錬を許した(注79)。

 然し、幕府の伝統的な砲術家達はこれを酷評したが、実力の差は明らかであった。1842年(天保13)6月、幕府は直参(旗本、御家人)の他、・大名の家臣でも秋帆の訓練を受けてもいいと令し、高島流砲術の声価は定まった。(注72)

 英龍が藤沢との関わりを具体的にもつのは1834年(天保5)からである。英龍が藤沢関係のことで最も衝撃的な処断として知られるのは、鉄砲場見廻役と鉄砲方役人・佐々木氏の処罰事件である。鉄砲場に取り立てられて以後、幕府の鉄砲役人達が大勢来て、一定の期間、練習を行っていた。鉄砲場の管理は現地の宿役人に任せられており、幕府方での派遣隊責任者は、いつごろからか佐々木氏となっていたが、本来、芳しくない管理、つまり調錬場内の作付(田作)を地元の農民に許可していた。この事が、1832年(天保3)、国改めで発覚し、佐々木氏は祖父・父・長男ともども流罪、藤沢宿役人・辻堂村名主の5名は、伝馬町の牢屋に投獄された。うち1名は自殺する。この事件は、鉄砲場管理だけの問題でなく別の問題が含まれているようである。それは英龍を先頭とする開明派武士や知識者達の、鉄砲方役人の「砲術」の練習場並びに技術・武器等の旧弊に対する批判が込められていなかったろうかという事である。この説を裏書きするかのように、刀こそ武士の命と信じてきたので、鉄砲を利用するのに、かなりの不平を持っている事と、鉄砲の利用は、鉄砲方役人に任せようとする雰囲気があった。と同時にその鉄砲方役人といえば旧来の「砲術」つまり特権武芸流の仲間に独占され、何の実益性も無い伝統武芸に低迷していた。
 この話は、山路愛山が勝海舟の伝記を書くなかで、海舟の回顧談としてのせている。
 明治期以降の茅ヶ崎では事件の中心人物である佐々木卯之助を好意的に受け止め1898年(明31)追悼記念碑を建立している(注74)。

 1842年(天保13)英龍は日本で初めて堅パンを製造し、日本のパン祖と呼ばれている(注78‐2)。英龍が幕府鉄砲方に就任したのは、1843年(天保14)である(注72)。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4294

 7・3・2 英龍の晩年

 英龍は、日本が内憂外患の激しい状況下に生れ、そして代官の立場からその対策を考え努力した。その過程で、渡辺崋山や高野長英、小関三英等の友人を「蛮社の獄」で失い、そして師範・高島氏が投獄される憂き目にあうなど苦々しい体験を経てきた。しかし幕府が何人ものあたら知識人・有能者を抹殺してなお、日本の針路の決まらないのに焦躁しきりであった。遂に1850年(嘉永3)50歳の時に、反射炉を造り、独力で海防問題に乗り出し、相模国沿岸の防備を説き、台場築造を建議・上申するなか、55歳で死ぬ。その意思は子息英敏に依って継承され、達成されるがその時はもう諸外国との修好条約が結ばれる状況を迎えていた(注79)。


 7・4 鉄砲場と農民の負担


 国家的観点からの鉄砲場の重要性と、その周辺に住む人々にとっての鉄砲場の意味とは、おのずから別なところがある。地元の人々にとっては鉄砲場というものは、何かにつけて気の重いものであり時には迷惑な事もあった(注72)。
その詳細は省略する。

 7・5 鉄砲場の廃止

 1728年(享保13)鉄砲場が設置され1850年(嘉永3)の演習を最後にその利用が終わったようで、海防が叫ばれた時代を迎えて、江戸城近郊の演習地に舞台が移された(注75)。

 1868年の明治維新により約140年間に亘って利用された鉄砲場は廃止となった。鵠沼村の南東部は日本初の別荘分譲地として開発され、辻堂村西部は日本海軍横須賀海軍砲術学校辻堂演習場となった(注77)。



 (注)引用資料は最終稿にまとめて記載します。

 注71:調布ネットワーク( Vol.24‐1)

 注72:藤沢市史(第5巻)

 注73:ウィキペディア「徳川吉宗」

 注74:茅ヶ崎市史4通史編

 注75:藤沢市文書館古文書講座「鉄砲場関係古文書を読む」平成26年開催

 注76:相州炮術調錬場:「相州炮術訓練場編年史料」の編者服部清道氏は、“「炮術調錬場」は俗称「鉄炮場」と呼ばれていたが、その正式な呼称は各種文書でまちまちであり、打小屋場所の移動を考慮して誤解を避けるため「相州」の字を冠し呼ぶ事とした”としている。
 文中の「炮」は(注)76、77以外は「砲」と記述した。


 注77:ウィキペディア「相州炮術調錬場」

 注78‐1:ウィキペディア「江川太郎左衛門」

 注78‐2:ウィキペディア「パン」

 注79:図説藤沢の歴史


 (訂正)前号vol25‐2を訂正します。

 ①P 42下段12行目 煙害→塩害

 ②P 45上段2行目 田中耕太郎→井上大次郎

 ③同、注62 鵠沼郷土資料室→鵠沼郷土資料展示室
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4294

 明治維新により、鉄砲場は辻堂海岸と茅ヶ崎市の一部を日本海軍横須賀海軍砲術学校辻堂演習場として、近代日本海軍に引継がれた。近代化を進める日本は、藤沢市をも軍港横須賀との結合を前提に形成された軍事都市としての機能を持たせるのである。

 8・1明治維新(注81)

 明治維新とは明治政府による天皇親政体制の転換とそれにともなう一連の改革をいう。
 その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐におよび日本を東アジアで最初の西洋的国民国家体制を有する近代国家へと変貌させた。
 近代国家建設を推進するためには、「富国強兵」「殖産興業」をスローガンに中央集権化に依る政府の地方支配強化は、是非共必要な事であった。
そこで改革を全国的に網羅する必要がある事から1871年(明4)廃藩置県が実施された。1870年(明3)に徴兵規則が作られ、廃藩により兵部省が全国の軍事力を握る事となり、1872年(明5)には徴兵令が施行され、陸軍省と海軍省が設置される。こうして近代的な常備軍が創設された。

8・2幕営横須賀造船所と辻堂の鉄砲場(注82)

横須賀は、幕末期の慶応改革の一環として、フランスの援助の下に巨費を投じて、造船場が建設されて幕営軍事工場の中心地になると共に、また幕府海軍の根拠地になった。フランス人技師約40名の助力に依って、既に構築中であった幕営長崎造船所を上回る最大の造船施設の着工を開始した、その背後には、対長州戦争に於ける敗北の痛手を、軍事力の強化によって乗切ろうとする幕府の権力再編の意図があった。フランス人技師は、横須賀湾が本国のツーロン軍港に似ている所から同湾を選び、幕府に協力した。幕末期には敷地の築造、工場・住居・船渠などの建設が進んだが、造船のうえでは幕府軍事力の補強に殆ど役に立たず、幕府の倒壊と共に同造船工場は新政府に接収された(『横須賀海軍船廠史』第一巻)。鉄砲場は幕末期の異国船来航以後、更に重要な意味をもち地元農民に認められてきた慣行や既得権さえ無視されるかたちで、軍事的利用が優先されていった。
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 8・3 軍港横須賀と辻堂演習場(注83)

 1868年(明初)、明治政府は旧幕営横須賀造船所を幕府から引継ぐと共に、横須賀湾を日本海軍の軍港として強化し、また辻堂の幕府鉄砲場をも接収して軍隊の演習場や実弾射撃場に拡張・利用した。政府は旧幕府の借財の担保物件として、フランスの管理に移っていた横須賀造船所の抵当権を、英国東洋銀行から資金の調達を受けて、解除して取戻したうえ、1872年 (明5) には海軍省へ移管した。以後、同工場は 「事務章程」 や「職工規則」を制定すると共に、1877年 (明10)代以降、錬鉄・鋳造・製缶・組立・船渠などを含む諸施設を拡充し、後に舞鶴・呉・佐世保などとならぶ海軍工廠の一つとして整備されていった。

 横須賀には「帝国海軍」の創設と共に、海軍区の警衛、艦隊の出動、沿海の防備を担当し所属部隊を監督する官庁として鎮守府が開設され、早くから軍事都市としての機能をもつようになる。海軍の創立当初には軍港・要港の設備がなかったが、1871年 (明4)、兵部省の中に海軍提督府が設置されたのが鎮守府の始めである。

 1884年(明17) に東海鎮守府が横浜から横須賀に移転されると共に、横須賀鎮守府と改称、鎮守府条例が制定された。ほぼこの段階になると、参謀部・軍医部・主計部・造船部・兵器部・建築部・軍法会議・監獄署・軍港司令部・屯営・水雷営・病院・武庫・倉庫・造船所・軍政会議などその機構がかなり整備された。1889年 (明22)、軍港司令官が任命され、第一は横須賀、第二は呉、第三は佐世保、第四は舞鶴などにも鎮守府が開庁され、軍備拡張と共に東日本に於ける海軍の基地としての基礎が確立した。(『海軍制度沿革』海軍省編)。

 以後1916年 (大5) に、海軍航空隊も創設され、1923年 (大12)の関東大震災の後には海岸の埋立・拡張と共に、市内各所の海軍諸施設が横須賀・箱崎の二半島に集中して、海軍用地としての性格が増した。
 横須賀は、そうした軍事都市として、その規模を拡大してきたのみならず、「東京ハ我国ノ脳髄タル首府ナリ、東京湾口防備ノ必要ナルコトハ固ヨリ言ヲ侯タザルナリ」 岩海岸要地防御ノ位置選定ノ件』 1891年 (明24年)、参謀次長川上操六意見葦 との軍部の認識を前提に進められる東京湾の要塞化の過程でも重要な位置
にあった。

 東京・品川・横浜・横須賀を含む 「海岸防御」体制の整備は、フランスやオランダの工兵技術を土台に、軍部が1873~74年 (明6~7)前後から具体化するが、三海壁(人口砲台)の構築と、それに平行して推進された横須賀を中心とする夏鳥・笹山・箱崎・波島その他の地区にわたる砲台の建設で、それら備胞工事は、ほぼ1894~1895年明27~28)の日活戦争期までにその大部分を完了した。1896年 (明29) に要塞司令部が設置され、1899年 (明32) に要塞地帯法が制定された。次いで
1915年(大4)にはそれが強化されて、横須賀を中心とする東京湾とその周辺の要塞化が一応完成した(『東京湾要塞歴史』東京湾要塞司令部)。

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