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浜で育った松の木 『限秒』より

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/1 23:04
夏子  半人前   投稿数: 22
これから私が書き込む一連の文書は、聞き書きと言うにも当たらないような発言であることを、
まずはお断り申し上げておきます。

遠縁のおじ松岡忠男が、1979年(昭和54年)77歳のころ刊行した『限秒』(げんびょう
)(非売品)から、主に幼少年期の部分を取り上げ、その中からさらに伝承館にふさわしいと思
われる部分を抜粋《ばっすい=要所の抜書き》しました。

このおじ(生前、松岡のおじさん、と親しく呼んでいましたのでそう言わせて下さい)は長い教
育者としての生活を終えたあとに自らの人生を振り返り、反省資料として、周囲の先輩や友人
などに感謝を込めて捧げられ、且つ残された自らの生命の充実を願う、として刊行し、知人、
親戚《しんせき》等に配られたものす。

なお、ネット上で読んでいただくことを考慮して、適当に空白行を挿入しました。文頭を一字下
げてあるのは原文どおりの段落で、下げてないのは私、夏子が改行をしたものです。
( )内の(前略)(中略)(後略)(夏子注:・・・)は私が書き入れました。   

松岡 忠男  1901年(明治34年)生
         鳥取県米子市大篠津(おおしのづ)に生まれ育つ
         小学校訓導《くんどう=旧制小学校の教員》から始まり、その後教育関係
         一筋を歩む
         元米子市教育長

========================================

          ★★★ 浜で育った松の木 ★★★
                        松岡忠男著『限秒』より抜粋
  
その1 ★ 生まれ故郷と人々 ★

 私達の村は昔この地に沢があって篠《しの=小竹・笹》が多生していたことによって、大篠津と地名ができたときいている。(中略)

村は面積〇、一七七方里《ほうり=平方里=0.177方里は約0.7キロ四方》の小村で、浜(夏子注:弓ヶ浜半島のことを地元では浜という)でも耕地面積狭く、高度の集約《=集めまとめる》的経営によって収入をあげる方向で、海外渡航、県外進出の多いのも必然であった。依《よ》って村人は教育を尊重重視して、純農村ではなく商業的雰囲気《ふんいき》もあった。浜では官衙《かんが=官庁》的施設多く、駅・郵便局・裁判所出張所(登記所)・銀行等一応の施設あり町造りをなしていた。教育については村民あげて関心があり、明治の初期小学校開校には教える教師稀《まれ》のため、藩《はん=明治以前の大名の領地》の塾《じゅく=私設の学舎》出身者を招いたのであったが、この村は村出身者で経営が出来たようである。(中略)

 私はささやかな農家に生まれ姉二人があって三人姉弟、男兄弟なく育ったが、父は私が三歳頃渡米したので母が中心で下男《げなん=下働きの男》を雇って農業経営(養蚕《ようさん=蚕を育てまゆを取る》業)をし、祖父は町の名誉職で毎日を費やしていた。

私は小学校二年生頃までは病弱で村の開業医有田、角両医師には随分お世話になったものである。幼い時は牛乳と肝油《かんゆ=ビタミンA.Dを含む製剤》がきらいで母からよく叱《しか》られた。今は老婆になっている姉たちがお前の薬取りに毎日行ったものだと話してくれると感謝の念がわき起こってくる。

家に男兄弟がないことはもの淋しいものだ。従って従兄弟《いとこ》あたりは兄弟つき合いで、懐かしかった。私は学校が休みになると必ず従兄弟の家(島根県揖屋《いや》)を往来したもので二、三日位泊まって何かと指導を受けたものであった。ちょうど年令が私より二つ三つ上であったから自然弟気分でつきまとった。

 従兄弟の一人に大変盆栽《ぼんさい=鉢で植物を栽培し樹形を整える》好きなのがいて、よく苗木をくれて育て方の指導を受けた。現在まで下手な盆栽いじりでもやっていられるのはこの従兄弟のお陰だ。男の兄弟は大切だ。「男兄弟があったら・・・・」私は今もなお思うのである。(後略)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/3 16:00
夏子  半人前   投稿数: 22
菊花薫る十一月二日は郷里氏神さんの秋祭、その翌日三日は天長節《明治天皇誕生を祝う日》で学校では拝賀式が行われ、天長節の歌を奉唱《ほうしょう=つつしんで歌う》し祝賀したものである。これは明治時代の一風景で、当時(明治四十年頃)は小学校が尋常科四年制度《=旧制小学校》から六年制度となった頃で、私は六年制度になってからの入学生である。

 村の小学校は氏神さんの門前に位置し、何時でも神社境内で遊んで鐘が鳴ると教室に入ったものだから学校の敷地内に神社があるか、神社境内に学校があるか、どっちかわからない状況で、然《しか》も一年生担任の先生はいつも門脇豊美先生といって、諏訪神社の神主さんであったので益益《ますます》わからぬのが本当であった。

 校舎は三棟からなり一棟は二教室と玄関、それに一棟は職員室と一教室、もう一棟は二教室全部平屋、学級は総て複式《=二つ以上の学年を同クラスにする》、四・五学級のささやかな愛労尋常高等小学校《=尋常小学校に高等科を併設した学校》であった。

高等科は明治三十九年上道(夏子注:アガリミチ)村にあった組合立弓ヶ浜高等小学校から分離しての併置《へいち=同じ所に置く》である。隣りの和田村にはその当時は高等科が設置してなかったので、和田村からも入学して来る高等科の生徒が幾名かあった。

 私は明治四十一年四月の小学校入学であるが、その前年即ち明治四十年五月 大正天皇が皇太子の当時天皇の名代《みょうだい=代理》として山陰に行啓《ぎょうけい=皇后・皇太子等が外出されること》になられた。山陰では初めての行啓であったから県民は米子・鳥取・倉吉にそれぞれ御宿泊所を建て其他《そのた》お迎えの準備におこたりなかった。

先ず殿下《=皇太子》は軍艦「鹿島」に搭乗《とうじょう》されて舞鶴港をご出発、十五日境港にご上陸なされ、公式鹵簿(夏子注:ロボ=天子の行列)で外浜街道をご通過、米子の錦公園今はなき鳳翔閣《ほうしょうかく》に成られ《=おいでになり》御宿泊になった。

境港より順路の途中愛労小学校で小憩《しょうけい=少しの休憩》遊ばされ、その際特別にご真影《ごしんえい=天皇のお写真》を下賜相成った《かしあいなった=下したまわった》と聴く。当時由緒《ゆいしょ》ある学校として児童達は誇りを持って勉学に励んだのであった。これを記念するため弓浜南部の各小学校で連合して運動会が催され出場した記憶がある。

 担任の門脇先生は諏訪神社の大松を指さして、名誉ある学校だ。生徒だ。とあの大松のように大きくなれ、そして皆から尊敬される人となれと教えられた。時々大松の下に行って大空を仰ぎ、その偉大なる姿を敬慕したものだ。

私達の小学校時代は勿論《もちろん》、先年迄三本で森をなして、野鳥の巣、洞穴《どうけつ》には大きな「コーモリ」などが巣作り、何処《どこ》からでも望められて浜の漁夫達は沖からの目標にして居ったものだが、樹齢は詳らか《つまびらか=くわしい》でないが何百年も村の人達に何か教訓を示して呉れたことであろう。

それがお宮の西方が航空隊の基地(夏子注:現在の米子空港で、自衛隊の基地でもある)となり、飛行するに邪魔になるということで切りたおされた。その思い出は痛ましい。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/5 21:17
夏子  半人前   投稿数: 22
日本国有鉄道《=1987年民営化によりJRとなる》は東京――横浜間を最初に走った。山陰線は境―御来屋(夏子注:みくりや)間ときく。明治三十五年《1902年》十一月頃境を基点として、大篠津―後藤―米子―熊党(伯耆大山《ほうきだいせん》)-淀江―御来屋と走る。当時の交通機関は人力車《じんりきしゃ=人を乗せ車夫がひいて走る二輪車》、荷車《にぐるま=荷物運搬車》、馬車《ばしゃ=人を乗せ馬が引く四輪車》位で汽車というと交通一大革新だ。

従って子供には汽車遊びは唯一《ゆいいつ》のハイカラな遊びである。先ず縄《なわ》で乗客列車とし駅長、切符係、出札係とそれぞれ役を配当し、切符は木葉、お銭は松葉等で、毎日近辺の小道で盛んにやったものだ。

時には停車場《ていしゃば=駅》に行って汽車の発着、機関車のかまたき、駅長の敬礼、車掌の出発の笛、客車のドアーの開閉の仕方等を幾辺《いくへん》となく見学した。石炭を「ゴヘタ」(夏子注:五平太=ゴヘイダは石炭の異称。中国・九州地方で使われていた)と言ってキラキラする石炭の光沢に眼を見張ったものであった。

 又当時は日露戦争《1904~5年》後であるから、いっぽう何といっても兵隊ゴッコ、集団遊びだ。年令の上のものが連隊長(夏子注:原文では聯隊長)、中隊長、小隊長と階級を定め厚紙でつくった肩章《=肩につける階級章》をつけ、連隊旗手は行儀のよい信望ある子がこれになり敵味方と分かれ、灘浜(夏子注:海辺の砂浜)や松林(夏子注:灘浜には防風林として松が海岸線に植えられ、長い林をなしている)を走り回ったのである。

 又、内務班《=兵営内で1中隊を5.6の班にわけた》的規則を定めて養蚕場《ようさんじょう=蚕を育てる場所》を兵営とし厳格な統制をとり上級生の威厳の場でもあった。魚とり、鳥かまい等の技術も先輩より教えられ、時には工作の時間となり、鑑賞の時間ともなり、道徳の時間ともなった。こんな社会的思考と自然とを勉強した風景は幼い頃の思い出である。

 昨今野球を語らぬものは人でないほどであるが、特に全国高校野球選手権大会は出場するものも、見物するものも総《すべ》て人生感激の極みである。私達の幼い頃ベースといって男の子の特有な遊びであった。

ちょうど米中(夏子注:旧制米子中学)野球部創立時代で村にも野球がはやり、子供達は二銭《せん=昔の通貨・一円の100分の1》か三銭ずつ出し合って、ボールとミットを境港の八木橋という雑貨屋にわざわざ放課後買いに行った。

バットは松の棒か杉で製作し、キャッチ用のミット一つで他の塁手は素手《すで》で、野球場は浜辺か宮か堂の広場でやるので、打ったボールは落ちたところで止まる。必ず九人制でなく集まった子等を両方のキャプテンが順次一人ずつとっていって何人でも参加できるオープンな組分けでやった。

時々隣村の子供等の試合をする。試合に剛球《ごうきゅう=強い球》でも投げればあまりひどいといって軟球《なんきゅう》を要求して抗議を申し込んだり、変化球もなく総て直球であった。

野球用語も総て英語なまりで、塁はべ-ス、ワンダン、ツーダン、今のホームランはロストといって暫く試合中止したり、面白く試合したものだ。


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/6 16:27
夏子  半人前   投稿数: 22
浜の産業は畑作《はたさく=畑で作物を作る》中心で藩政《はんせい=幕府は地方に藩を置いた。後に県となる》時代から明治二十年頃までは綿作中心で、弓浜全体に於《お》いても最盛期には全耕地の三分の一以上栽培せられたことといわれていた。その後外国綿の輸入の影響あって激減し、これに変わり養蚕業が段々隆盛となり、世界第二次大戦頃までは日本でも有数な蚕業地帯となった。

この時代に育ったのであるから綿作の水かけ作業のつらさは話だけで終るのであるが、養蚕の手伝いは子供の作業としても参加十分に出来た。

桑つみ・桑刈り・農家の子弟《してい=子供など年少者》は養蚕時には寝る場所もない有様で、県外からも雇用人の出入多く、特に島根半島裏、隠岐、遠くは出雲神戸方面より出稼ぎ人多くやって来た。

村には繭(夏子注:まゆ)乾燥場、取引所、娯楽場も出現、劇場二ヶ所、盛り場等も賑《にぎわ》って春から秋までは戦場のように忙しい農村であった。

 昭和初期頃より繭価下落始め単一なる養蚕経営は経済的圧迫甚《はなは》だしく、これが救済に努めなければならなくなった。県では弓浜部(夏子注:きゅうひんぶ)農村救済計画を樹立し指導にのり出した。

先ず桑園の整理減反《げんたん=作付け面積を減らす事》を断行し、これを他の有利な作物に転換し、有畜農業《ゆうちくのうぎょう=畜産(馬・牛・羊など)と農作の兼業》等実施によって、浜の農業経営に一大革新を加えた。特にこれらの転進《てんしん=進路を変える》には中年層の努力甚大《じんだい=きわめて大きい》であり、このことは各村に見られた。

大篠津に於いても農学校出身者が率先して研究会を結成し、実施に移し目覚しい活動は産業史に特筆すべき経験であった。
   田地つぶして桑植えて 米は喰う気か 喰わぬ気か(桑の木か)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/7 23:08
夏子  半人前   投稿数: 22
私達小学校時代の教科書は黒表紙で、定価七,八銭位で修身《しゅうしん=旧制の学校の教科、忠義・孝行・勤勉など教えた。第2次世界大戦後廃止、道徳となる》・算術《さんじゅつ=算数》・国語・書き方《習字》手本。上級になれば歴史・地理・理科・図画手本等で、当時は徒歩三里(十二キロ)米子の今井書店まで出かけて購入したものだ。

第三学期春の彼岸《ひがん=春分の日前後》頃になると、本買いといって上級生が隣り近所の下級生を引率して本買いに行く日取りを計画始め出す。一方には古本をゆずり受ける交渉もはじまる。

いよいよ三月末になると麦の芽は伸び出し、気候もよくなり大抵《たいてい》五・六人位一団となり、遠足姿で弁当を用意して草履《ぞうり》はき浜街道(夏子注:境港―米子間の当時の幹線道路)を南進、和田・富益・夜見と過ぎ、浜第一の橋、浜橋にかかる。

浜では橋という橋に見当たらないものが欄干《らんかん=てすり》つき大橋だ。「あいきょう、おっきな橋だのー」(夏子注:「あれまあ、大きな橋だなあ」)誰かがいう。社会は一段と広まっていく。

三本松付近になると、やや町近く足は勇み、糺山に到着する。砂山、山上に神社があり眺望よく小憩には最適地だ。町に並ぶ飲食店は浜街道を往来する人達の休憩場で、一杯《=飲酒》を始め稲荷寿司《いなりずし》、豆腐。特に「いただき」(夏子注:郷土料理。油揚げの中に米などを詰めて煮たもの)等の珍品は賑わしき風景で、米子の出口という場所だ。

 子供達は糺山の山上、大人は並ぶ飲食店でそれぞれ腹を整えて米子の町に入場が常であった。

いよいよ立町を進み四ツ角を左に曲がって尾高町にある今井書店、店は古風な畳敷き前掛け姿の店員さんが数人、係の店員さんに愛労校何学年というと、高く積んである本を上からとってくれる。

計算をすませ、一ヶ年待望した教科書を風呂敷《ふろしき》包みにし、本買いを終って勝田(夏子注:かんだ)神社に急ぐ。勝田神社は米子、浜の目の崇敬《すうけい=うやまう》の神社であるので、一同賽銭《さいせん》を捧げて礼拝すませ、裏山(勝田山)に登る。三、四十米の小山なれど米子市街見下ろされ、再び腰の弁当をひらく。

昼食終って水晶探し。小さい水晶を一つでも見つければ大変だ。米粒位の水晶二、三ヶで満足帰途につく。子供達は何だか鉱物には魅力があった。綿に包んで保存、黄銅鉱でも手にしたら金こん(夏子注:金のかたまり、の意味でしょう)だといって鬼の首でも捕ったように大切にした。

新しい教科書、米子の町の見物、勝田山の水晶探し、とても想い出ある楽しい公認の行事であった。

新学期がやって来るまでには何べんとなく新しい本に眼を通し暗記の状態まで進み、親は勉強出来たと喜ぶ顔は滑稽《こっけい》だ。

今は国庫で教科書配給となり学校で頂戴《ちょうだい=頂く》とは時代の変遷《へんせん=移り変わり》の姿で、義務制国庫負担法は有難いことながら子供の夢は一つ消えたようである。


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/10 15:45
夏子  半人前   投稿数: 22
 「今日はキス・アジ・エビだがどがなかいナー(夏子注:どうですかー)」と声をかけるのは二人で竹籠(夏子注:タケカゴ)をかついだハチマキの漁夫さんだ。この二人は手ぐりといって沖の和田礁あたりまで出て魚とりし、十一時頃帰って村で走り歩く漁夫の毎日の行事だ。

 採れたての魚の味は海近く住む者の特権だ。浜の者はこんな魚を毎日食べている幸福者である。手ぐりの味は忘れられない。それと浜の地引網だ。

網元があって数人のたくましい漁夫が三櫓《ろ》立ての船に網を積み今かと待ち伏せていると、船頭が海辺に出て魚の「はみ」《=魚群》とみられる場所を探す。やがて網をおろすことを命ずると勇ましく沖へ漕《こ》ぎ、半円を描いて岸辺にかえって来て両方に分かれて引き上げる漁獲法だ。

 舟を海に出す頃一人の漁夫は板木《ばんぎ》をたたいて、村中に網をおろしたことを知らせ人集めにかかる。村人は板木の音を聴くと海岸に出て網元の指図で両方に分かれて網を引き出す。

急がずゆっくりエンヤエンヤと後すざりを何べんもくりかえして、大抵二・三時間かかれば魚袋が近くなる。

生きた魚ははねる、気勢は益々上がる。漁夫の笑顔はひとしお、岸辺は一段とにぎわしくなる。これが地引網の風景である。

とった魚は分け前といって地引網に手伝ったもの全員がそれ相当に分配せられ、残った魚は荷車《にぐるま=荷物運搬車》で何人かの漁夫で米子魚市場に運ぶ勇ましさは浜街道を賑わしたものであった。

     あたごまい唄

  一、 汲《く》めよ 汲め 汲め
    でんでん 汲めば
    いがな 大名も立ち止まる
    おお おもしろや
    はあ えんや えんや
  二、 (中略)
  三、 (中略)

を歌ってお礼参りは威勢のよいもので、その時には必ず赤い手拭《てぬぐい=ほぼ長さ90センチ、幅36センチの木綿の布》でハチマキしめて酔いふけるのだ。

 昭和の初め頃の春、鯖《さば》の大漁あり続いて「シビ」(まぐろの成魚)の大群が浜の海におし寄せ大漁の大騒ぎがあったことを想い出す。

沖から網でおしよせると二米(夏子注:メートル)位な大きな「シビ」が右方左方岸辺近くによせて来る。たくましい漁夫は真裸体《まはだか》になって海中に飛込んで飛びかき(消防用)で、ひっかけ、大きな槌《つち》で頭をなぐって仮死状態にして灘《なだ》端にあげる。海は血の海と化し全く戦場のようで威勢のよい男性的な風景が数日続き、景気のよい浜灘であったことがある。

 何時《いつ》頃までか賑った浜もだんだん鯖、鰯《いわし》漁も不漁となり、手ぐり漁、地引網等も姿が消え、今では観光用として、小さい地引網が残って昔の面影を残しているのは淋しい。

近海漁業は遠海漁業に移り、境港を根拠地として遠く船出し、年間漁獲水揚げ量約二十万トン、街は威勢のいいセリ市にはじまり、続々水揚げされる鮮魚は凡《およ》そ百台の大型保冷車で京阪、東京方面へ出荷されるという。

 昭和三十年頃に私は孫をつれて境港見学に出かけた処《ところ》、たまたま鯖船が盛んに鯖の荷揚げをやっている場面だ、顔知らぬ人が突然鯖五、六本もなげてくれたことがある。そこに居合わせた人には誰となくくれる風習は漁師の昔からの根性だ。少しでも人に与える心のゆとり、漁夫の純情、大声でどなりつける場と調和のとれた人情劇である。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/11 14:27
夏子  半人前   投稿数: 22
 小学校六年の担任は堀江勝胤先生といって鳥師(鳥取師範《=教員養成学校》)新卒の先生で単身赴任せられた。学生時代は柔道の猛者《もさ》で境(夏子注:現在の境港市)の金畑誠一先生はよきライバルで、師範学校の重鎮《じゅうちん=一方のかしら》ときく。酒豪家でそれに音楽家で当時立派なオルガン所持というハイカラな先生であった。

 この先生、体操時間終了後には必ず浜の波打ち際まで(片道約一キロ)往復を走らせ、採点表を作って記録して走ることを奨励《しょうれい=すすめ励ます》せられた。同級生の安田忠久君(この人は体格抜群、ジャイアントという異名の持ち主)と競うけど、どうしても彼に勝つことは出来ず、残念ながら二位にとどまるを得なかったこの行事の印象は深い。

 中学(夏子注:旧制米子中学/現米子東高)に入学すると私達の先輩に安田友明、安田義憲、本池栄、榊原精三、安田啓治等の諸兄が通学していたが、総て徒歩で片道二時間位要していたようだ。その慣例《かんれい=ならわし》に従って新入生も徒歩通学、雨の日も風の日もやらねばならぬ毎日の行事だった。

もしや時間に間に合わぬと見たときは走らねばならぬ。遅刻すれば成績総合点より一回につき二点減点という厳重なる規則があり、生徒達は容易に遅刻も出来ず休めず、成績のよくない私達には一大痛手で、よく頑張って横着をいやしめ健康を願ったものだ。

 中学一年の校内マラソン(約十二キロ)大会が行われこれに参加した。出発四キロ地点までは第一集団で走って居ったが、ちょっとスピードを出して見たところ、他生徒と差が大きくなり先頭にたった。これは作戦のつもりであったが、ついにそのままゴール入りし一着のテープを切った。

それから自信もつき学校のマラソン選手として、幾度か大会に出場した。結局毎日の徒歩通学のたまものと感謝するのである。

それから歩く運動に興味を持つようになった。二・三人の友達と中海(夏子注:鳥取県と島根県の県境にあり、弓ヶ浜半島と島根半島に囲まれた湖)を一周して脚を鍛え、又は日野路を通って、四十曲峠を越えて岡山に出たり、四国・九州まで脚をのばして歩く等全く歩く想い出は水戸黄門さんに続くであろう。

 子等は走る!

 私だけが走ったのではなく、浜出身は大体よく走ったものだ。浜の小学校は砂でボクボクザラザラ、土を入れないそのままの運動場が多く、脚力が強くなければ走られぬのであった。素足で砂浜を走り通すことは浜っ子は誰もがやらねばならなかったことだ。それが土が入れられアスファルトとなるにつれ段々脚は弱くなるらしい。

 大正中頃から昭和初期は陸上競技の盛んになった頃で、松江の山陰オリンピック大会を始め、各地で陸上競技大会が開催された。

特に当時渡小学校、富益小学校の選手はどこの大会でも立派な成績を残している。(中略)浜の子はよく走ったものだ。


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/15 13:26
夏子  半人前   投稿数: 22
 台風去って秋が訪れて来るころ、どこでも村、町あげての楽しい運動会が始まる。先だって東京都内の真ん中の小学校で狭い狭い運動場に見物人がぎっしり立って賑《にぎ》わしく声援しているのを見た。やっぱり都会でも片田舎《かたいなか=都会から遠く離れた村里》でも秋と共にある状景である。

 町ぐるみになって行われるこの運動会が何時《いつ》頃から始まったものかよくわからぬが、なかなか威勢のよい気持ちの出た行事だ。

なんでも明治の初め鎮台《ちんだい=陸軍の軍団》で歩武《ほぶ=足どり》堂々の威容を世に紹介し、当時国民をアットいわせたそうだが、それにヒントを得て学校内容を面白く取り込んで就学奨励の一助《いちじょ=少しの助け》にしたものだと誰かがいったのを記憶するが、これがほんとうか責任はもてない。しかし明治百年過ぎた昨今からして見ると余程《よほど》歴史の古いことは想像される。

 年々回を重ねると色々工夫をこらし、走ったり、飛んだり、踊ったり、演技は多種多様満艦飾《まんかんしょく=軍艦が旗などで飾る事から変じていっぱい飾り立てること》の下でにぎやかに時代の流れを宿し、特に高学年のダンスや何々対抗リレー等は、人気の中心となってプログラムに綴《つづ》られているのは昔も今もあまり変わらないかに思われる。

終戦後になれば練磨《れんま》の運動会に楽しい行楽気分が加味せられ仮装行列《かそうぎょうれつ=いろいろの変装でねり歩く》場面が台頭《たいとう=頭を出す》するとか、開催日が大体十月であったものが、最近ではどこの学校でも九月中に挙行されるようになった。

 戦前は十月十五日勝田神社のお祭当日は中学校(現米子東高)、十月十七日神嘗祭《かんなめさい=伊勢神宮のお祭り》当日は女学校(現米子西高)、その他の地方の学校はその前後となって、米中米女の運動会が米子界隈《かいわい=あたり一帯》の秋の最高潮であったものである。

各小学校では米中米女の各運動会の小学校対抗リレーに出場し、優勝を競うに懸命の練習。一方中学生(男子)は見学してはならぬと禁止してある女学校の運動会に出かけ、それがわかり停学処分をうけたものが毎年幾人かあったが、今どきの子供たちの自由な姿にくらべ、想《おも》えば痛ましい時代であった。

 当時(大正時代)米中では日露戦争の影響あってか奉天戦《ほうてんせん=日中戦争の一部》を型どり、兵式教練《きょうれん=学校で行う軍隊式訓練》を披露《ひろう》して最後に攻防戦となり空砲を交えて空激する実戦さながらの場面を展開する。勝田さん(夏子注:勝田=かんだ神社)参拝客もこれを見学せんと遠くから出かけたものである。

また水兵競争といって高い(十米位)マストの上にある旗を、綱をつたって登りその旗を早くとって決勝に入る競争など、時には観覧者を驚かせ冷や汗を握らせたりして演技の妙を発揮したものだ。

 こんな多彩な演技の中“限秒”というのがあった。それが後世の短距離(百米)競走となる元祖ではなかろうか。

先ず出発合図には今のピストルにあたる村田銃《村田氏が1880年完成の小銃》を肩にのせて、引き金を引いてズドンと一発、選手は決勝線を知らぬ。時間で十幾秒位経つとズドンと一発、走っていた選手は直ちにその場に止まる。

先にいって止まっている者が一等、その次が二等となる。時間内に走れるだけ走るということで何時ズドンと一発なるものやら、15秒か17秒か時間は出発係の考えだ。走るコースは円周だから見物人はよく見えるので声援がよくとんだもので、短距離界のホープを目指す連中は勇んで出場したものだ。

私も出場して一等になって賞を受けたものであるがこれが百ヤード競走となり、百米となって、現今の百米競走となり時代は百米を十二秒で走り、十一秒台となり十秒台となって九秒台が世界記録となっている。

 しかし限秒は時間はあっても走った距離はいわず、只《ただ》他人よりも先におることだ。私達人生は百年生きることでなく、ズドンと胎内を出発いつ止まれの号令がでるものやらいざ知らず、一日一日を懸命に走り続ける人生だ。その日の充実は先に生きるエネルギーである。若い時代の一つの競技“限秒”を想い出して若さをとりもどしたい。

武者小路氏は『生れけり、死ぬるまでは生きる也《なり》』といっているが限秒談義ともいいたい。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/16 21:33
夏子  半人前   投稿数: 22
 明治三十五《=1902》年頃境港より山陰の鉄道が始まったけれど、米子に出かけるにも境に行くにしても歩いて用達をしたもので、浜のほぼ中央(夏子注:著者の住む大篠津は弓ヶ浜半島の突端の境港と根元の米子との中間あたり)、の大篠津は往来者の小憩場所で、飲食店も多く宿場《しゅくば=交通や経済の要所》的な様相であった。

大阪屋という、浜では設備のよい宿屋があった。この店には“大阪屋の甘酒”といって近在に珍しい評判の甘酒が売ってあった。大正《1912~1925》の初期頃までは続いていて、道中の人々を慰めたのである。

 雪がチラチラ山茶花《さざんか》の花がほころぶ頃寒くなると、甘かゆ(夏子注:甘酒)に酒を注ぎ生姜《しょうが》を入れてあたためれば、また格別の味を出して人々の想い出は深い。

浜では正月になると何処《どこ》の家でもご馳走《ちそう》として造り、出来の悪い酢ばい(夏子注:酸っぱい)のでも無理に頂いたものである。


   == のっぺ汁 ==

寒空にのっぺ汁はよくにあうものである。昔よく採れた中海の赤貝(夏子注:サルボウガイ)のだしで、ごぼう・人参・こんにゃく・里芋等の野山の産物にゆっすらとカタクリ粉をまぜた汁に少々生姜を入れて汁のしまりをする。なるべく煮立ての温かいのがご馳走である。

   == ハマバウフウ(防風) ==

春になると浜では防風つみだ。幼い頃祖母が今日はバウフウつみだといって、大きな負い籠《かご》を背負って浜に出て、そこら一面に生えているバウフウを一、二時間で籠一杯とって香の高いのを味噌つけ用にした。時には酢ものにして大人は酒の口取りとしたらしい。その香りは何とも言えないものだ。先だって昔を想い出し家族そろって浜に出て見たが一本も一芽も見出すことが出来なかった。

 植物図鑑によると、
 せり科多生年草、中国の原産、多く海浜に自生する。茎葉共に特殊の香気と辛味とを有する。其《そ》の新茎葉を食用に供し風味あり、とある。


   == 松露《しょうろ=食用きのこの一つ》 == 

 春雨の頃は松露だ。図鑑は海辺もしくは内地の松樹下の砂中に多く生ず。大小種々あれども通常球状をなし直径七八分(夏子注:2,3センチ)を有し、表面に多少根状の菌糸を附着すとある。小松林に雨あがり松葉かき(夏子注:熊手)で松露探しは風情《ふぜい》あるものだ。

松露には米松露と麦松露といって二種類あり、米松露はやや白くきめ細かく一寸《ちょっと》上品だ。麦松露の方はやや褐色きめあらく、どちらも何とも云えない風味を持つ。茶碗むしに二、三ヶ入れたり、お吸物にもよい。特に大きいのを串《くし》刺しにして醤油つけあぶって食べるなどは道楽の一つかも知れない。松露ずしは更によいご馳走だ。


   == 乾瓢《かんぴょう》のはらわた汁 == 

 生産は兎角《とかく=とにかく》農家は総て自給自足は当然としたもので、浜でも蔬菜《そさい=野菜》類を始め西瓜《すいか》・乾瓢(夏子注:かんぴょう)の瓜類栽培は必ず農家では自家用として栽培した。

夏の夕方、明日は上天気だということになれば、大きい白い乾瓢を収穫して明朝早く日の昇らぬ中に乾瓢むき作業、先ず輪切りにしてかんぴょうむき器にかけて細長くむき出し、それを竿にかけて一日中干して普通料理にする乾瓢が出来上がるのであるが、最後にむき器にかからぬ残ったのを材料にして短冊切りにし、醤油吸物にする。

この時辛いとうがらしを忘れてはならない。たいてい昼食の際のご馳走で、汗を流して頂いたもので独特な農家の料理であった。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/8/17 20:43
夏子  半人前   投稿数: 22
 大正九年四月から鳥取師範《しはん=師範学校(旧制の教員養成校》二部に入学することになった。

先ず第一の理由は男の子一人なので家から離れないこと。その二、郷里で就職できること。その三、東大に進む能力がないこと。その四、家庭が母子家庭であること。等の理由であったようだが勿論《もちろん》教師を志望する考えは当時入学するまではなかった。

師範は全生徒寄宿舎《=学生寮》生活で、私は南寮第四室に配当となった。(中略)米中時代陸上競技に関係していたというので私に対する諸君の取扱い方は好感がもたれた。然《しか》し二部生は一年間で卒業して行くので学校に対する愛着はあまりなかったようだ。

 寮生活は若き青春時代には想い出のある生活だ。起床・食事・自習時間・就寝総て時間制で規則正しい規定があり、外出も自由でなく許可制であった。放課後になると二、三人組んで市中を往来するは師範生に多く見かけられたが、そば・うどん屋に出入する生徒もあったようだ。一方運動選手は熱心に運動に励み陸上競技は全国的レベルで優秀な選手も輩出《はいしゅつ=優れた人材が次々と出る事》した。

 第二学期は過ぎ第三学期になると教生(教育実習)だ。(中略)教壇に立てば教案の作成もしなければばらず、これには相当の時間がかかり、何べんも書き直す訂正もした。音楽授業(当時唱歌)は私には苦手中の苦手でこれには苦労した。幸い低学年であったからやれたものの・・・・。

心配していた公開の研究授業は唱歌と体操でやれとの命が出たのである。これは大変だ、腹を決めてやらねばならぬ。先ず毎朝二時間前に出校して、オルガンの練習を続け子供達に視線を向けつつオルガンが弾けるところまで練習の行が必要となった。

いよいよ当日がやってきた。教材は文部省唱歌「兎」《うさぎ》。第一時である。さし絵をかいてうまく導入したように思ったが、本旨《ほんし=本来の目的》歌唱指導に入るとオルガンは弾けても咽喉《いんこう=のど》からうまく声が出ないので子供達が上手にリードしてくれて指導の段階を通過、四十分の授業を終った。ヤレヤレである。

教える教師よりもよく出来る子供等に助けられた授業であったことは汗顔《かんがん=恥ずかしい》。小学校の教師は全教科がこなせる教師でなければと評を受く。音楽指導はこれが最初であり終わりでもあった。運よく小学校の免許状獲得訓導《くんどう=小学校の正規教員》として卒業が出来たこと、唱歌に感謝せねばならぬ。

教育学は真田三六先生で中々気概ある先生であったが、授業は進行せず教訓めいた話で、時間は終って後で読んでおけ、さする中に《=そうしているうちに》卒業一ヶ年は終了した。他に黒川多三郎先生は舎監《しゃかん=寮の監督者》兼務担当教科は博物《はくぶつ=旧教科の一つ、自然、動植物、などの総合的な学科》・博学で生徒は鍛えられ、舎監でも厳格そのもので印象深い先生であった。漢文国語で池田粂次郎先生、数学の松田光男先生、体操の松岡重徳先生、音楽の関塚晋先生、手工《しゅこう=旧教科の一つ、図画、工作》の田淵達己代先生等の各先生には異なった印象が深い。

特に手工・音楽は不得手であったが、入学して間もない手工の時間、一本の木片が材料として二寸《約6センチ》角の棒を作るよう提示され作業にかかった。鉋《かんな》けづり二寸角にやった作業が一寸五・六分までけづられてしまった。

先生曰く「君の二寸角は面白い一寸五分で二寸とは大哲学者だ、フウン。」指導処理の段階に入れず約十分も立ったまま授業は終った。その時の先生のお顔が今も浮かんでくる。手工室は一糸乱れず諸工具が何時でもきちんと整理せられ、道場にでも入った気分がするのであった。音楽の関塚先生には特別音楽劣等生指導の労を謝する私である。
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