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電気通信大学藤沢分校物語(10)前号まで

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/12/17 6:54
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4294

(前号まで)

 平成22年、藤沢分教場に関する資料が少ないことに注目した編集委員会の勧めがあり、私は目黒会、大学、藤沢市文書館、鵠沼郷土資料展示室、関係者等に残る資料を掘り起こし、藤沢分校の歴史を蘇らそうと思ったのである。

 大正6年電信協会(明26年組織、若宮正音会長)は安中電機製作所から帝国無線電信講習会を継承経営し「国家のための無線学校を創設する計画」を唱え、公益法人化組織にすることを決め、電気通信大学の前身、社団法人電信協会管理無線電信講習所が認可されて、1918年(大7) 東京麻布区に開設した。電信協会から1942年(昭17)官立無線電信講習所の成立までを述べた。

 無線電信講習所初代所長若宮正音(在任期間、大7~13)及び第2代所長若宮貞夫(同、大13~昭17)のひととなりを再掲する。
 電信協会会長若宮正音は1854年(安政元)岡山県豊岡町に在る西楽寺の若宮正海長男とし
て生まれ本家と僧籍を次弟に譲り、自らは大阪師範学校で学を修め、教員、和歌山新聞編集長
を経て工務部の官吏となり、逓信省大臣秘書官、外信局次長、工務局長を経て1891年(明24)
初代の電務局長となる。電話開設につき渋沢栄一等の民営論と工務部(後の逓信省)の官営論があったが、初代逓信大臣榎本武揚、逓信次官前島密を説いて官営論を実現させ「電信電話線建設条例」を制定、電話事業の生みの親ともいわれている。漢籍や書を愛したが、碁が好きで、秋山好古陸軍大将(坂の上の雲の主人公)や土佐の政客竹内綱(宰相吉田茂の実父)などが訪れた。秋山将軍は馬を玄関前の松につないでおいて囲碁を闘わせられ、吉田茂もよく迎えに来られたという。1924年死去。

 若宮貞夫は1875年(明8)豊岡町若宮正海三男として出生。1899年(明32)東京帝国大学法学部卒業後逓信省に入省、同年正音の養嗣子となる。1922年(大11)逓信次官、1924年退官、同年衆議院議員に当選。1931年陸軍政務次官、1934年(昭9)政友会幹事長、1941年鳩山一郎を中心とした同友会結成に参加。その他衆議院予算委員長、国連協会理事を務めた。1946年(昭21)死去。貞夫の四女正は元高知県知事橋本大二郎の母、貞夫は大二郎の外祖父にあたる。正は元総理大臣橋本龍太郎の義母。
 藤沢市の歴史的、地域的な特質から、江戸時代に辻堂鉄砲場が設置され、その管理には代々江川太郎左衛門家が藤沢宿代官として、民政にあたっていた。明治維新により、辻堂鉄砲場は日本海軍横須賀海軍砲術学校として引き継がれ、近代化を急ぐ日本は藤沢市もまた軍港横須賀との結合を前提に軍事都市としての機能を持たせ、海軍と藤沢市との密接な関係をもたらした。一方満州事変、日支事変、第2次世界大戦と益々広がる戦局は通信を絶対不可欠なものとし、無線従事者の養成が一層急務なこととして認識された。

 1942年(昭17)3月24日、逓信省は無線電信講習所の官立移管を進める一方、藤沢分教場の建設に関し大蔵省、藤沢市と交渉を進めてきた中村純一電務局長は藤沢市長に校舎借入に関する公文書を送った。「時局柄経費の関係を考慮した結果、所要の校舎、寄宿舎等は借入に依るとの方針で、昭和17年度予算に計上し予算の成立を見ましたが、貴市城内に格好の敷地を認めましたので、該地に無線電信講習所を設置したく、以上の事情を御諒察の上、貴市に於いて本件講習所新設に関する校舎、寄宿舎等を新営の上、これを政府に貸与方、御配慮を煩わしたく照会致します」。同年3月26日に大野守衛藤沢市長は、藤沢市会に「官立無線電信講習所新設費起債に関する件」を上程し、可決した。(注1001)


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