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その10 ★ 教生と唱歌指導 ★

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夏子

通常 その10 ★ 教生と唱歌指導 ★

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/17 20:43
夏子  半人前   投稿数: 22
 大正九年四月から鳥取師範《しはん=師範学校(旧制の教員養成校》二部に入学することになった。

先ず第一の理由は男の子一人なので家から離れないこと。その二、郷里で就職できること。その三、東大に進む能力がないこと。その四、家庭が母子家庭であること。等の理由であったようだが勿論《もちろん》教師を志望する考えは当時入学するまではなかった。

師範は全生徒寄宿舎《=学生寮》生活で、私は南寮第四室に配当となった。(中略)米中時代陸上競技に関係していたというので私に対する諸君の取扱い方は好感がもたれた。然《しか》し二部生は一年間で卒業して行くので学校に対する愛着はあまりなかったようだ。

 寮生活は若き青春時代には想い出のある生活だ。起床・食事・自習時間・就寝総て時間制で規則正しい規定があり、外出も自由でなく許可制であった。放課後になると二、三人組んで市中を往来するは師範生に多く見かけられたが、そば・うどん屋に出入する生徒もあったようだ。一方運動選手は熱心に運動に励み陸上競技は全国的レベルで優秀な選手も輩出《はいしゅつ=優れた人材が次々と出る事》した。

 第二学期は過ぎ第三学期になると教生(教育実習)だ。(中略)教壇に立てば教案の作成もしなければばらず、これには相当の時間がかかり、何べんも書き直す訂正もした。音楽授業(当時唱歌)は私には苦手中の苦手でこれには苦労した。幸い低学年であったからやれたものの・・・・。

心配していた公開の研究授業は唱歌と体操でやれとの命が出たのである。これは大変だ、腹を決めてやらねばならぬ。先ず毎朝二時間前に出校して、オルガンの練習を続け子供達に視線を向けつつオルガンが弾けるところまで練習の行が必要となった。

いよいよ当日がやってきた。教材は文部省唱歌「兎」《うさぎ》。第一時である。さし絵をかいてうまく導入したように思ったが、本旨《ほんし=本来の目的》歌唱指導に入るとオルガンは弾けても咽喉《いんこう=のど》からうまく声が出ないので子供達が上手にリードしてくれて指導の段階を通過、四十分の授業を終った。ヤレヤレである。

教える教師よりもよく出来る子供等に助けられた授業であったことは汗顔《かんがん=恥ずかしい》。小学校の教師は全教科がこなせる教師でなければと評を受く。音楽指導はこれが最初であり終わりでもあった。運よく小学校の免許状獲得訓導《くんどう=小学校の正規教員》として卒業が出来たこと、唱歌に感謝せねばならぬ。

教育学は真田三六先生で中々気概ある先生であったが、授業は進行せず教訓めいた話で、時間は終って後で読んでおけ、さする中に《=そうしているうちに》卒業一ヶ年は終了した。他に黒川多三郎先生は舎監《しゃかん=寮の監督者》兼務担当教科は博物《はくぶつ=旧教科の一つ、自然、動植物、などの総合的な学科》・博学で生徒は鍛えられ、舎監でも厳格そのもので印象深い先生であった。漢文国語で池田粂次郎先生、数学の松田光男先生、体操の松岡重徳先生、音楽の関塚晋先生、手工《しゅこう=旧教科の一つ、図画、工作》の田淵達己代先生等の各先生には異なった印象が深い。

特に手工・音楽は不得手であったが、入学して間もない手工の時間、一本の木片が材料として二寸《約6センチ》角の棒を作るよう提示され作業にかかった。鉋《かんな》けづり二寸角にやった作業が一寸五・六分までけづられてしまった。

先生曰く「君の二寸角は面白い一寸五分で二寸とは大哲学者だ、フウン。」指導処理の段階に入れず約十分も立ったまま授業は終った。その時の先生のお顔が今も浮かんでくる。手工室は一糸乱れず諸工具が何時でもきちんと整理せられ、道場にでも入った気分がするのであった。音楽の関塚先生には特別音楽劣等生指導の労を謝する私である。

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