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その3 ★ 遊ぶ浜っ子 ★

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夏子

通常 その3 ★ 遊ぶ浜っ子 ★

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/5 21:17
夏子  半人前   投稿数: 22
日本国有鉄道《=1987年民営化によりJRとなる》は東京――横浜間を最初に走った。山陰線は境―御来屋(夏子注:みくりや)間ときく。明治三十五年《1902年》十一月頃境を基点として、大篠津―後藤―米子―熊党(伯耆大山《ほうきだいせん》)-淀江―御来屋と走る。当時の交通機関は人力車《じんりきしゃ=人を乗せ車夫がひいて走る二輪車》、荷車《にぐるま=荷物運搬車》、馬車《ばしゃ=人を乗せ馬が引く四輪車》位で汽車というと交通一大革新だ。

従って子供には汽車遊びは唯一《ゆいいつ》のハイカラな遊びである。先ず縄《なわ》で乗客列車とし駅長、切符係、出札係とそれぞれ役を配当し、切符は木葉、お銭は松葉等で、毎日近辺の小道で盛んにやったものだ。

時には停車場《ていしゃば=駅》に行って汽車の発着、機関車のかまたき、駅長の敬礼、車掌の出発の笛、客車のドアーの開閉の仕方等を幾辺《いくへん》となく見学した。石炭を「ゴヘタ」(夏子注:五平太=ゴヘイダは石炭の異称。中国・九州地方で使われていた)と言ってキラキラする石炭の光沢に眼を見張ったものであった。

 又当時は日露戦争《1904~5年》後であるから、いっぽう何といっても兵隊ゴッコ、集団遊びだ。年令の上のものが連隊長(夏子注:原文では聯隊長)、中隊長、小隊長と階級を定め厚紙でつくった肩章《=肩につける階級章》をつけ、連隊旗手は行儀のよい信望ある子がこれになり敵味方と分かれ、灘浜(夏子注:海辺の砂浜)や松林(夏子注:灘浜には防風林として松が海岸線に植えられ、長い林をなしている)を走り回ったのである。

 又、内務班《=兵営内で1中隊を5.6の班にわけた》的規則を定めて養蚕場《ようさんじょう=蚕を育てる場所》を兵営とし厳格な統制をとり上級生の威厳の場でもあった。魚とり、鳥かまい等の技術も先輩より教えられ、時には工作の時間となり、鑑賞の時間ともなり、道徳の時間ともなった。こんな社会的思考と自然とを勉強した風景は幼い頃の思い出である。

 昨今野球を語らぬものは人でないほどであるが、特に全国高校野球選手権大会は出場するものも、見物するものも総《すべ》て人生感激の極みである。私達の幼い頃ベースといって男の子の特有な遊びであった。

ちょうど米中(夏子注:旧制米子中学)野球部創立時代で村にも野球がはやり、子供達は二銭《せん=昔の通貨・一円の100分の1》か三銭ずつ出し合って、ボールとミットを境港の八木橋という雑貨屋にわざわざ放課後買いに行った。

バットは松の棒か杉で製作し、キャッチ用のミット一つで他の塁手は素手《すで》で、野球場は浜辺か宮か堂の広場でやるので、打ったボールは落ちたところで止まる。必ず九人制でなく集まった子等を両方のキャプテンが順次一人ずつとっていって何人でも参加できるオープンな組分けでやった。

時々隣村の子供等の試合をする。試合に剛球《ごうきゅう=強い球》でも投げればあまりひどいといって軟球《なんきゅう》を要求して抗議を申し込んだり、変化球もなく総て直球であった。

野球用語も総て英語なまりで、塁はべ-ス、ワンダン、ツーダン、今のホームランはロストといって暫く試合中止したり、面白く試合したものだ。


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