2002年KJ-CLUB・メロウ倶楽部懇親会

日韓交流會への旅十日(9)

午後5時30分からは新宿住友三角ビル49階「スカイギルド」で日韓懇親会が開かれた(会費5000円は参加者各々の負担)ので会員皆がこの会場に席を移したのである.始めにメロウ倶楽部の小澤恭一さんとKJクラブの李義圭(元老坊釜山支部長)さんがご挨拶を述べられたが,特に李支部長の日本語が傑作で人気があり万雷の拍手を受けた.
続いて紹介された祝電及び報道機関と,今回の行事を支えてくれたスタッフ達に対しては満場の拍手喝采で感謝と激励の意を表した.
懇親会は皆がバイキングの夕食を取っている間にもプログラム通りに進行された.

    

    

金基河(佳松)さんと伊藤司カ(いれぶん)さんの市原先生の事に関するエピソ−ドの紹介があった後,金成国(烏堂)さんと甲斐幹(幹)会長の「書画紹介」が見物であった.
特に金成国さんは掛け軸に達筆で書かれた漢詩と優美に描かれた東洋画に対し,自分の身の上話を添えた堪能でひょうきんな関西訛りの熱辯で解説してくれたので座中は大笑いとなり,皆の関心と興味がだんだん盛り上がって雰囲氣はピ−クに達した.

    

    

    

舞台は変わって「のど自慢」が始まった. 一定の次第もなく自発的に誰でも飛び入りで懷メロを歌うと皆がそれに会わせて声高らかに拍子を取りながら歌ったのである.
「ベサメムチョ(Besame Mucho)」「港町十三番地」「誰か故クを想わざる」など,日本と韓国の歌を歌いながら打ち解けて遊ぶ祝宴で懇親の熱気はクライマックスに達した.窓越しに見下ろす燦爛たる東京の夜景もこれに一入(ヒトシオ)興を添えてくれた.又奇拔なアイデアで作られた美しく可愛らしい団扇にサインを記し交わしながら両国民の友好は益々深まって行った.

    

    

江崎忠男(え−)さんと北岡成章(キタノホマレ)さんとの司会で,ネ−ムカ−ド福引と宝探しジャンケンゲ−ムの組み合わせによる抽選会が始まった.私は籤運があって籤が当たり賞品として新刊雑誌を一冊貰って嬉しかった.

     

次は速水諄(『寫樂』)さんからお土産(コップセット)の紹介があった後,皆がキャンドルを振りながら「アリラン」と駒井義康さん編曲の「今日の日はさようなら」をあんみつ姫さんの指導と録音されたカラオケの伴奏に合わせて両国語で歌いながらフィナ−レを飾るを以て日韓交流と懇親会大団円の幕が下りたのである.
一点の非の打ち所もない中身の満ちた睦まじくて楽しかった交流会と懇親会であったと思う.これはすべてこの度の行事の企画,準備と進行を受け持った主役達と,甲斐幹会長を始めメロウ倶楽部会員皆樣方の真心と,ご努力を生んだ気高いボランティア精神の発露に外ならんと確信する.今回の立派な目出度い縁結びをきっかけに今後とも日韓両國民親善友好の度が益々高まるよう心から祈念する次第である.

            


日韓交流会への旅十日(10)

昨夜,懇親会でより親しくなった日本の友達とは再会を期しながら名残りの涙を飮んだが今朝は難しく三度も訪ねて来た東京ともおさらばを告げるのであった.
3月31日午前8時37分,新幹線の博多行ひかり101号は私達大邱組20名を自由席に乗せて,メロウ倶楽部会員達に見送られながら東京駅を出発した.
日本列島の大動脈である新幹線の高速列車は東京から博多(福岡)まで長い6時間を時速250ー300kmの恐るべき速さで疾走するにも拘わらず,揺れも少なく乗り心地もすごく安らかであった.
列車が都会地を外れて行くと,鉄道に沿った一帶は殆んどが平野で区画畵がきちんと整理された田畑,包裝された農路,瓦葺き二階建ての農家の集落,機械化された農機具と車の駐車場,山のように積もった廃車群など,のどかな農村の風景が繰り広げられた.
沿道に麥畑がほぼ無いのは韓国に似ているが,韓国に多い温室栽培用のビニ−ルハウスは見付からなかった.農閑期だったので野原で働く百姓の姿は見えなかったが,彼らの生活水準は都会人と比べてあまり劣らぬと確信するのである.
また韓国よりマンションの数が少ない.韓国では中産階級の人たちがアパ−トを好むので高層ビル(20∼30階)のマンションが多いが,日本では地震が頻繁なせいか,これとは反對の傾向があるらしい.
晝12時が過ぎたので車内で賣っている駅弁を買って昼御飯を美味しく食べた.列車は大阪で5分間停車後,有名な阪神工業地帶を通り過ぎていた.この辺りに多い筈の工場の煙突が一向見つからなかった.それほど工場から噴き出す煤煙がないという話だ.工場の廃液も完璧に処理されるので露出の下水道も勿論見當たらなかった.
また台風と雨が多くて気候が不順な日本はC淨な大気に惠まれているとも言える.風と雨が微塵を無くし,韓国のように中国から吹き付ける黄砂の被害もない.
今回,網膜出血症を患っていながら私と同行した家内は「日本に来て以来韓国に居た時よりも他人の顔や物体がもっとはっきり見えた」と証言している.
また神戸一帶は何年か前,大震災に見舞われた時,多くの破壞と人命の損失があったと覚えているが,今はその痕もなく復興したのに驚かざるを得なかった.
岡山を通り過ぎる時は「P戸大橋」にも行って見たかった.始めに計画された旅程には 「岡山→P戸大橋→松山→関西汽船→別府→熊本→阿蘇山」となっていたのが,その後,長崎観光の希望者が多くなったため,博多に直行するように旅程が変更されたからである.残念であった


日韓交流会への旅十日(11)

3月31日午後2時31分,列車は博多駅に到着した.プラットホ−ムには富本眞さん,藤本C子(堅香子-私とメ−ル友)さんの外,多数のメロウ倶楽部会員たちがお出迎えと
とご歓迎をして戴き誠に嬉しかった.
ホ−ムの出口から階段を下り約500mの地下道を歩いて行って,また階段を上り,表通りに出てから約200m離れた裏町にある「山本旅館」に入った.この旅館は木造二階建ての伝統的日本式の家で,六疊の疊部屋に狹い廊下と階段,共用のトイレと洗面場,小さい食堂など,その仕組みは懷かしい復古的な情趣に富んでいた.しかし冷煖房裝置や小さな庭園など必要なものは殆んど皆備えていながら宿泊料はホテルの半分位で,それなりに良かった.私は今から57年前の一月,大学受験のため独りで熊本に行き或旅館の八疊間に泊まった事があった.部屋が寒くて布団の中に「湯たんぽ」を入れて寢た時の記憶が蘇(ヨミガエ)って來たが,その時節と今とは実に隔世の感があった.
二人一室のチェックインを終えた我ら一行は市内バスに乗って福岡の市街地を一回りしたが,バスの中はあまり込まなかったし,席を譲る若者達も居るのに感心した.
窓越しに見える福岡の町並みも良く整っていたし,道行く人達も活気に満ちていた.
市内観光からの帰り道に,近所の免税店に立ち寄ってショッピングをした後,近くの食堂に入り夕食としてシャブシャブを食べた.韓國で食べたのとはメニュ−がやや違っていたがやっぱり甘(ウマ)かった.
翌4月1日は長崎觀光の日であった.
朝早く長崎に住んでいる,私とは韓国晋州中学校の同期生で最も親しかった「阿比留英明」さんに電話を掛けて見たが折好く対話が出来て涙が出るほど嬉しかった.彼は卒業後,故クである長崎に帰り「三菱重工業長崎造船所」に勤めながら重役にまで上がり,そこで定年退職した造船界のベテランである.8·15終戰後,韓國には3−4回遊びに来たことがある.電話でお互いの安否を伺った後,彼が私達のガイド役をやってくれると言うので本当に有り難かったし,大いに助かったと思った.
6時30分, 旅館の食堂で和食の朝食を終えた我らは博多驛まで歩いて行って7時32分発の長崎行新幹線「かもめ3号」に乗って福岡を出発した.
沿道の景色は本州地方とあまり変わらなかったが,自転車と列車で通学する農村の女学生達が目に付いた.4−5名の中学生と見える女生徒たちが自転車に乗って駅まで来ては駅の駐車場に駐車後,列車で通学している逞(タクマ)しい姿が印象的であった.
列車は鳥栖(トス)で鹿兒島本線と分かれ,佐賀,諌早(イサハヤ)を経て9時30分,長崎駅に到着した.


日韓交流会への旅十日(12)

人口43万の長崎市は今から430年前,ポルトガルの船が入港して以來,鎖国時代にも唯一な貿易港として繁栄し,外国文化吸收の中心地として異国的な情獅ェ豊かな港町であった.しかし1945年8月9日,広島に次ぐ第二の原爆投下により全市街地が破壞され,多数の犧牲者を出したが,今は元以上に復興した.九州の最西端という位置條件のため,韓国人の観光コ−スには除外されがちである.私も長崎訪問が始めてで久し振りに宿願が叶ったわけである.
駅まで出迎えて下さった阿比留さんと観光計計画を協議した結果,市内定期観光バスには乗らずに電車を利用しながら阿比留さんのガイドに從うことにした.
そこで一番最初に訪ねた所は国寶に指定されている「大浦天主堂」であった.
市内電車から下りて約10分坂道を登り,大変美しいカトリックヘ会堂の正門に着いた.この建物は日本がまだ禁ヘを続けていた1864年,フランス宣ヘ師によって設立されたもので,日本に現存する最も古いヘ会堂だという.ゴシック樣式とバロック樣式が一つに溶け合った見事な外観と祭壇及び外壁のステンドグラスなど,その美しさは,それこそ筆舌に尽くし難かった.
大浦天主堂の見学を終えた私達一行は緩やかな坂道を15分位登って有名な「グラバ−園」の入口に辿り着いた.
「此処は日本の近代化に貢献した英国人貿易商「ト−マス·グラバ−」氏の旧邸宅を中心に,市内に散在する洋館を集めて1974年に造られた「長崎の明治村」として長崎観光地の代表に挙げられる名所である」と阿比留さんが案内してくれた.
私たちは外国人と高令者優待の割引チケットで入場した.其処から丘の一番高い所にある「三菱第二ドックハウス」まで登って行った.この建物は明治初期,長崎造船所ドックのサイドに建てられた二階建ての洋館で,船員たちの憩いと宿泊施設として利用されてきたのを,この場所に移して来たという.多くの部屋に展示された船舶(軍艦を含む)の製造,発達過程を説明する模型,絵,記録など数多くの資料を廻って見た後,二階のベランダに出ると,一目で見渡す麗(ウルハ)しい長崎港の全景はオ−ストラリアのシドニ−港に匹敵する素晴らし
い壯觀であった.
次は「ドックハウス」から園構内の半分位下りて行った所に国が「重要文化財」と指定した「グラバ−旧邸宅」があった.「この邸は日本で最も古い四つの葉のクロ−バを型どった木造洋館だ」とハングルの案内書に書かれていた.また此処はオペラ「お蝶夫人」の背景になった所でもあり,貴重收藏品を速やかに閲覽することが出来る「收藏品檢索システム」も設置されていた.


日韓交流会への旅十日(13)

チュ−リップ,金盞花等,色とりどりの綺麗な花が咲いている邸の前の花壇を背景に写真を撮った.
この外にも国の重要文化財に指定された英国人リンガ−氏,オルト氏の旧住宅と「お蝶夫人」の主役を演じて世界的に有名なオペラ歌手になった「三浦環(タマキ)」さんの記念像には時間が無くて探訪出来なかったのが殘念だった.
この園最後の見所として日本の芸術品が展示されている「伝統芸能館」に入って見たが,一番印象に殘ったのが日本三大祭りの一つである「長崎くんち」を代表する奉納踊りに使う豪華燦爛たる長さ約20mの竜体(ジャタイと読む)であった.その前で写真を撮るを以てグラバ−園の見学を終えた.
次は其処から10分位下りて行って国の指定史跡である「オランダ商館跡」を見学した.此処に有る「出島」は日本の鎖国時代に唯一のオランダ人居留地であって1634年に完成した扇形の埋立地だという.当初のポルトガル人退去の後は1641年より約200年間オランダ人が居住し世界の文化や情報の発信地になっていたそうだ.構内には桜が滿開し,入口には当時のオランダ邸の集落が,こぢんまりした模型で再現されているのに深い感銘を受けた.オランダ商館の跡と史料館もあったが時間不足で入らずに踵(クビス)を回らした.
今度は「眼鏡橋」を見に中島川の河辺に行った.日本橋,錦帶橋と共に日本三大名橋の一つであるこの橋は1634年,興福寺の如定禪師によって架けられた日本最初の唐風ア−チ石橋だと言う.さすがは心温まる風情のある景色であった.
此処を去り約20分間を歩いて「孔子廟」の入口にまで行った.この廟は海外で唯一に中国人が建てたと言う.廟宇は色鮮やかで併設の「中国歴代博物館」には中国4000年の歴史を伝える国宝級の文化財が展示されていると言う.
しかし,此処の入場料は,むやみに高く割引も無かったし,時間の餘裕も無かったので観覽を諦めた.韓国では敬老政策により60才以上の年寄りは地下鉄の乗車と観光地の入場が無料である.この日外国人高令者観光客待遇に対する我らの反溌心のため孔子廟観覽の機会を失ったが,私の場合は去る88年と95年に台湾と中国を訪ねた時,中国の重要文化財を殆んど見極めて来たので,さほどの悔やみは無かった.
中国人が経営する食堂に入り中食のウドンを注文して待つ間,私はガイド役の阿比留さんを皆に紹介した後,韓国から持って行った紅蔘茶を,又、金大洙会長は「干魚のセット」をガイドのお礼として阿比留さんに贈呈した.


日韓交流会への旅十日(14)

昼食後は中国人が好む赤や等,はでな色で彩られた「チャイナタウン」を一回りした.1858年江戸幕府が米,蘭,露,英,仏の五ヶ国と修好通商条約を締結した所謂「安政開国」後,旧唐人屋敷の華僑が次第にこの地に移住し中国街となって現在に至っていると言う.
次は長崎の中心地にある華やかな商店街を歩いて行った.軒を連ねた店先に数多くの色々な商品が並んでいるのが,東京,大阪などの大都会と比べて少しも劣る所が無かった.長崎の特産物であるカステラ,かまぼこ,ぼらの卵巣を塩漬けにして日干しした「からすみ」,ビ−ドロ(ポルトガル語のガラス)細工なども,この中に混じっていた. これ等の皆が慾しかったが予算が尽きてしまって買えず惜しかった.
この日,長崎で最後に訪ねて行った所は「日本26聖人殉ヘ地」であった.此処は1597年,秀吉の命によりスペイン人宣ヘ師を含む6名の修道師と20名の信徒が磔刑に処せられた所である.現在も国際的巡礼地「殉ヘの丘」として内外から巡礼者があとを絶たないという.その当時韓国でもフランス人宣ヘ師を含む数百名のクリスチャン達が日本と同じく犧牲になったし,彼らの殉ヘ地も今まで残っている.
道路から約40度位の坂道を凡そ50m登った丘の上に広場があり,その正面に,幅30m,高さ8m位のコンクリ−ト壁が造られ,殉ヘ者26名の立像が浮彫りに刻まれていた.その後にある併設の記念館には長崎のキリスト教関係の貴重な資料が多数展示されていた.
この外にも崇福寺,原爆資料館,平和記念館など見所が多かったが時間が許さず,急いで駅に向かった.ガイドの労も厭わなかった阿比留さんとは駅前で名残惜しい別れの挨拶を交した.長崎は実に見所の多い忘れ難い観光地であった.
午後4時30分,私達一行が乗った「JRさくら号」は7時20分,博多駅に到着した.
繁華街にある簡易食堂に入り,職場の話で花を咲かせながら入ってきたサラリ−マンらしい大勢の人達と入り交じり,「卵丼」で夕食を終えた.
食後,散歩がてら旅館まで歩いて行ったが10年前には多かった居酒屋も見付からなかったし,学生など少年の外出も殆んど見当たらなかった.
有名な阿蘇山の観光と日本滯留最後の日である4月2日は,昨日に続いて幸いにも雲一点無い日本晴れの良い日和であった.チェックアウトが終り2泊でお世話になった山本旅館とも名残惜しい別れを告げた.午前7時20分,我ら一行は「オカサギ観光」貸し切りバスに乗り旅館を出発して阿蘇山に向かった.


日韓交流會への旅十日(15)

観光バスには八久保弘(和賀仙人)さんを初め,藤本清子(堅香子)さんなどメロウ倶楽部九州会員17名が同乗して付き添われた.バスが熊本行の高速道路に進入して走る間,この車内でも自己紹介があった後,メロウ倶楽部の会員たちは私達との対話役と,予め準備した飲み物やおやつを配るなど世話役を務めながら色々と面倒を見て下さったお蔭様で長時間乗車の退屈を凌ぎ得た.熊本インターを出たバスは福岡出発から約2時間半程経って阿蘇山麓の駐車場に到着した.
ケーブルカーに乗って阿蘇中岳の噴火口にまで登って行った.過去2度まで来ても悪天候のため見ることが出来なかった火口を3度目に来た今日は晴れ上がったお天気の御蔭で辛うじて見ることが出来る願いが叶って本当に嬉しかった.立ち上がる白い煙の間間に見える青白い液状の溶岩は生まれて始めての素晴らしい見物であり,さすがは世界一の火口として称えられるに充分であった.のみならず,見渡す限り峰を連ねる紫色の阿蘇連峰,高原の広い草原に散らばった緑色の田圃,のどかな牧場,薔薇(バラ)やキリシマツツジの群生などを眺める見晴らしは他の追従を許さない立派な景観であった.
火口をバックに記念写真を撮り,小さな可愛い溶岩塊を記念に買って駐車場まで下りて来た.待ち合いのバスに乗り約20分かかって「阿蘇プラザホテル」に着いた.ホテル内の出湯(イデユ)に入り心も体もリラックス(relax)する一時を楽しんだ.
私達一行が舞台と食卓付きの広い客間に入った時,有り難くも甲斐幹会長が東京からわざわざ飛行機でお運びなされ同席して頂いた.日本の伝統舞踊と手品の妙技を鑑賞しながら和食の定食をご馳走になったが,演芸の終わりに金大洙会長も指を使った手品のショーをお目見えして拍手を受けた.昼食後は構内の売店で私の友人にやるボールペンを10本買って急いで帰路のバスに乗った.
 金基河さんは往年の恩師礼訪のため熊本インター附近で甲斐幹会長と一緒に下りた.この時,私も小学校4年生受け持ちの恩師であり千葉県四街道市にお住まいなさったが96才で亡くなられた故小林熊治先生を今から18年前にお訪ねしたことを想い浮かべた.これは飽(ア)くまでも国境を超越した師弟間の愛情の発露に外ならんと思う.バスは下関向きに疾走した.来た道を逆に行ったのである.


   日韓交流會への旅十日(16)

金栄浩さんは彼が過去,草津中学校在学時代の同級生からお土産に貰った餅を我等にも味わわせてくれて有難かったし,釜山組からは今年9月釜山で開催される「アジアゲーム」の記念バッチをプレゼントして頂き嬉しかった.「馴染んだと思ったらお別れか」と言う韓国の諺のように,福岡インターで,メロウ倶楽部九州会員たちとも名残り惜しく袂(タモト)を別たざるを得なかった.午後4時半頃バスは関門橋を渡って下関港に到着した。
出国手続きを終えた私たちは波止場の国際ターミナル待合室で釜山組と出会い滞日中の経験談で花を咲かせた.帰国の船「関釜フェリー(はまゆう号)」は私ども一行を一等室に乗せて,午後8時,下関港を出航した.
「釜関フェリー(韓国船)」と「関釜フェリー(日本船)」は略(ホボ)同じ大きさと設計で建造された豪華旅客船であって,航空機と共に日韓両国を往来する架橋の役割を果たしている.また「日韓共同乗車券」でソウル(全国主要都市)から鉄道«釜山«下関«新幹線«東京( 全国主要都市)まで経済的で便利な日本と韓国の旅行をすることができるようになっていた.
出航前に私の家族はデッキに上がり関門橋を背景に記念写真を撮ってから下りて来て食堂に行き,久し振りにキムチと牛肉汁で韓食の夕食を食べた.
食事後に会の経理担当者から今回旅行経費の総決算報告があったが金大洙会長が今度の旅行経費として多額の寄付金を会に喜捨されたお陰で会員各々の負担が大幅に減ったという発表を聞いて皆は拍手で会長に対する感謝の意を表した.
船は翌4月3日の朝8時釜山港に着き,再会を期しながら解散するを以って「交流会参加への旅」という大団円の幕を閉じた.
顧れば交流会に参加出来て楽しかったし,そのお陰で得た収穫も多かった.シニアたちがパソコンに依って国際的に多くの友人と付き合えたし,先進情報に接する機会が良かったのである.又観光に依る見聞も広めることが出来た.
歓迎と歓待をして下さったメロウ倶楽部の甲斐幹会長を始め会員皆様方のご誠意に厚くお礼申し上げると共に日本訪問団大邱組の引率者金大洙団長,金栄浩副団長,財務担当役金基河,朴玉子さんたちのお骨折りに対しても感謝の念を捧げる.
生涯忘れることが出来ない「日韓交流会」という意義深い行事を機に,日韓両国民は不幸であった過去の歴史をきれいに清算し,韓国民にとって日本は「近くて遠い国」でなく「近くて親しい国」であるよう,お互いに努力すべきだと思う.――(終)――

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